物理的な意味で言うと・・・

日本で初めて汽車が走ったのは
新橋ー横浜間(1872年)でもなければ
北海道の茅沼炭鉱軌道(1869年)でもない。

日本で初めて汽車が走ったのは
長崎の市民病院の前付近
(1865年)である
新橋ー横浜間が開業する7年前、イギリスの貿易商人が長崎で仮設のレールを敷いてデモンストレーションとして汽車を走らせました。
交通機関としての営業運転ではありませんが、物理的な意味で言うと日本で初めて汽車が走ったのは長崎なのです。
市民病院の前には記念碑と説明板があって歴史の事実を伝えていますが見る人はいません。

3枚とも93−5−13撮影




 ついでながら・・・
蒸気機関車の発明者は
一般的にジョージ・スチーブンソンという事になっていますが誤りです。
正しくはリチャード・トレビシックです。


かつてナゴヤ球場での観戦者輸送のため中央本線上にある山王信号所から分岐する貨物支線(名古屋港線)の途中の球場最寄位置に片面1線臨時のナゴヤ球場正門前駅が設置されて試合開催日に名古屋駅との間で臨時列車が運行されていました。
特に定期運行から離脱していたキハ82系が使われた時期には注目されました。
94−5−10撮影

この駅はナゴヤドームへの試合会場移行に伴いこの年の秋役目を終え、ホームも撤去されてしまいました。


 かつて姫路駅と手柄山を結んでいた姫路モノレール。経営不振などでわずか8年ほどしか運行されませんでしたが、軌道などは長らくそのままの状態で残っていました。大将軍駅はアパートの中を軌道が抜け通る姿そのまま、また手柄山駅は軌道が建物に突き刺さるような異様な光景を呈していました。
運行していた当時の手柄山駅は建物へ入ったところ左側にホームがあって、軌道はそのまま建物の反対側へ突き抜けて、そこからスイッチバックの形でホームのある線路の隣へ検修線が入り込むという配置でした。
この駅の中には車両があると長年言われていましたが当然非公開で一般の人は中に入れない為様子もわからず幻の存在となっていました。しかし私はその人知れず眠っている車両をぜひともこの目で見たいと思い、それが目的でここへやってきたのです。

訪問日は94−8−11です。

98年発行のJTBキャンブックス鉄道廃線跡を歩くVには「内部の見学は一切できない」(内部写真掲載なし)、又ネット上にも「マスコミの取材でも不可」と書かれていますが私が訪れたのはいろいろ世間で話題になる前の94年でした。
この建物にはモノレールの直接の管理者はいませんが、アポなしの直談判で建物内で働いている方に、たってのお願いをしたところ本当はうちの管轄ではないんだけどといいながらも立ち入り禁止であるはずの内部に入れてもらえることになりました。(私は単なる鉄道趣味人の1人でありモノレールや姫路市市役所の関係者ではありません)
構内は1人で自由に見させていただきました。照明が無い為あまりいいアングルではありませんが掲載写真は建物後ろ側の検修台入り口のシャッターを開けていただいた位置から撮ったものです。写真では3両しか確認できませんが、庫内には4両全車が存在します。左の車両は下廻りを外した状態の片運車(比較的早い時期に部品取り用になっていた様です)、右は検修線で片運車の両側を両運車が挟む状態で3両が留置されていました。私は確認しませんでしたが保守用車も一緒にあった様です。(検修線のさらに右裏側に壁を隔てて駅があります。)長年人が立ち入らないのでわずかな隙間からハトが頻繁に出入りしている様でした。写真1枚見たことの無い、また一般の人が見れるはずのない幻の姿を直に見ることが出来て大きな収穫となりました。

         ---実を言えば---
(既に一般公開されている上、20年も前の昔の事なので事情を明かしてしまうと・・・)

都市伝説ともいわれていた長年非公開の構内です。姫路の市役所に問い合わせなどしたところで立ち入り許可などおりるわけがありません。これはおおやけになっていなかったはずの事なのですが、(94年当時)直接現場に行って建物内で働いている方(管轄外ですが)に「非公開である事は重々承知しています。でも是非とも見させて頂きたい」と懇願し自分の気持ちを伝えれば内々で見学の便宜を図ってもらえる事を初めから知っていました。地元住民でもない私がどうしてそんな事を知っていたのか情報源ははっきり覚えていません。(私の周りにはそれを知っている人はいませんし、94年以前に手柄山に行った事もありません。)今までネット上に一般の人から報告記事・内部写真があがっていないところからすると、手柄山構内はお願い次第で見れることを知っていた人は何人もいなかったようです。その後いつの日からか内部の見学は完全に禁止となりました。(この写真を他の人に見せるのはこれが初めてです。)

その日応対していただいた方にはその御厚意により貴重な記録が残せました事及び今こうして多くの方に当時の様子を伝えられる事に対し改めて感謝致します。
【それから15年後】

2009年11月、旧ホームでの一般公開に向けた車両移動作業のうち2両目が屋外に出されるのに合せ1日だけの見学会が開かれ多くの人が訪れました。ネット上にも当日の様子が多数掲載されていますが、この時存在していたのは両運車の2両のみで、片運車の2両は既に解体されていてその姿はありませんでした。

【さらに1年半後】

2011年春、手柄山駅と両運車2両(201と202)は綺麗に整備されて一般公開の施設となりました。(車両の内部にも入ることができます。)尚、検修線があった位置(この写真の右側の壁の裏)は現在水族館になっています。
2011−8−10


モノレールの駅といえば・・・

熱海の駅前のビルの地下に半世紀も眠っている誰も見たことの無い(ネット上に写真1枚すら無い)幻の熱海モノレールの駅を見たいと思っているのですが叶わぬ夢なのでしょうかー。


廃線跡は日本中に無数ありますが、その中でも正に度肝を抜く光景がここ東海道本線用宗ー焼津間の旧ルートにある石部トンネル跡(神戸方出口)です。現在では山側を長いトンネルでぬけていますが、当初は海側の大崩海岸沿いを通っていました。ここはアイオン台風で特に下り線神戸方出口の坑門が海側へ大きく崩落した現場です。この上には道路が通っていますが、一般の人が降りてくる様な海辺でない為、ほとんどの人はまさか真下にこんな光景があるとは夢にも思っていないことでしょう。

94−11−26
トンネルの先も護岸が崩落していて路盤の位置も何処だったのか定かでありません。
強烈な姿を晒す光景だが、このちょっと恐ろしげなトンネルの中に人が住んでいる気配が・・・。
(一枚目の写真右側の下り線出口のところに傘と衣服が吊るしてあるのが見える)


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